徒然なるままに

早さかな 不如帰なりけり わがのあけ

夏の雨

先週、函館空港からバスを乗って帰えたとき、傘をバスで忘れてしまった。もしアメリカまたは成都の場合は、バスや電車の遺失物を取り戻せないはずだが、ところで日本の場合は違うといった。月曜日の授業のあとで函館駅前のバス事務所に相談して、傘の特徴を教えたら簡単に取り戻した。週末で彼女も東京の地下鉄に自分のカバンを忘れた。日本語を話せない彼女は地下鉄の職員と交流できなかったので、私と電話した。やがて職員の協力とともに、カバンを完璧で取り戻した。人口が二千万を超える東京の場合に対する、ここまで達する効率がとても不思議だと思う。

 

雨ながら、八幡坂から函館ベイエリアをはっきり見えなくなる。逆に、ベイエリアのスダーバクスに座って函館山にほとんど曇りを隠されてなる。函館と言えば、海と山を会う場所が、雨が降たらお互いに見えなくなったら、海と山も寂しくなるでしょう。

夏の読書(二)

夏の読書(二)

 

箱館は、いわゆる江戸時代の「鎖国」から「最初の開港」と言われた。神奈川条約によって、函館は最初の「自由通商」の港と言えるのに、江戸時代の日本が「鎖国」ではなかった。

 

日本いがいには、徳川将軍のいわゆる「鎖国令」以降ペリー黒船事件までの日本を「鎖国」という言葉で描く人が多いかもしれなかった。けれど、その有名な「鎖国」という表現は正確とは言えない。それというのは、1630年以降黒船事件まで、徳川幕府はいつでも朝鮮と琉球政府の通信を断らず、東南アジアと中国との通商も続けていた。むろん、16世紀と比べて日本人の通商活動が減少したのは事実ですが、「鎖をかける国」、つまり、「鎖国」とはほとんど言えなかった。

 

実は、「鎖国」という言葉は日本語の中に1801年に始めて現れた。「鎖国」という言葉は志筑忠雄がオランダ語の「日本誌」から翻訳したものだった。さらに、そのオランダ語の「日本誌」も、英語に翻訳された、17世紀のエンゲルベルト・ケンペルのラテン語の論文からの翻訳だった。「鎖国」という造語は、明治時代までに盛んに使われるようになってしまった。

 

去年、文部科学省は中小学校教科書おける「鎖国」という言葉を消すように指示した。それは正確な歴史への一歩だと思えた。

夏の動物(一)

夏の動物(一)

 

北海道には、うるさい夏の動物が二つある。その一つはホストファミリーの「コウスケ」と呼ばれる犬ですが、その二つは函館にいつもどこも見られるカラスである。

 

「コウスケ」は小さくて、可愛い犬ですが、ホストファミリーと一緒に食事の場合にはいつも私たちに向けて吠えている。何かの食べ物を与えられなければ、ずっと吠え続けている。お父さんとお母さんはたいてい私たちの食事の前にすでに「コウスケ」に食事を与えれたら、みんな困ってなる。

 

「コウスケうるさい!」お母さんがそうぶつぶついった。

 

「コウスケ静かになさい!」お父さんがそう叫んだ。

 

この場合は、「コウスケ」に私たちの食事を見させないように、お父さんが普段に布地で「コウスケ」を住んでいる箱をかける。でも、まだ食事の匂いがする「コウスケ」は諦めないようにずっと吠え続けている。

 

「コウスケ」のよりうるさい動物はカラスである。固定した場所と固定した時間に限られず、いつも見られるカラスが朝5時から晩10時までいつも叫んでいる。さらに、先週末函館山に行った時、箱館戦争幕府軍人の墓地を訪れた。そこに集まっている数十のカラスが私を見えて、すぐ叫んで、私に飛んでえた。墓地ながら、それはすごく怖いシーンだ。

 

 

夏の雑談(一)

来週の月曜日は彼女の誕生日が、函館に学習の義務を果たしなければならないので、誕生日の当日の代わりに本日東京に飛行機でいた。残念ながら、HIFのルールによって、週末にしても外に泊まれいけないので、東京への旅は当日回復になってしまった。今朝9時55分のJAL584便に出発した。

 

飛行中には、気になったこと一つが浮かんだ。機内食事どころか、機内無線インターネットアクセスも無料となった。アメリカの航空会社と比較すると、JALの国内航空便は安くて、なおさらサービスも完璧なだと思う。しかし、アメリカの航空会社と日本の航空会社、両者も商業的な会社なので、両者は経済的な利益さえの最大化のため、航空券の価格と機内サービスの提供を決めしないはずではない。国内線に限りではなく、中米の航空線には、日本の航空会社(主にANAJAL)がいつも最優先の選択として存在している。じゃ、日本航空会社の優越を支えることは何と言うか?

 

自分自身の経験によると、それは商業競争から生まれた得だと思う。特に、アメリカの航空業にはモノポリーという深刻な問題がある。例えば、イェール大学が置かれるニューヘイブン市の空港には、運営する航空便はAA会社だけ存在している。競争の相手はいなければ、選択もなくなる。やがて、ただ数百マイルの航空便の価格が何百ドールほどになる。アメリカの大航空会社の間に結託があるように、多くの市の空港は一つ会社が独占されたようになった。逆に、羽田と函館の間に運営している航空便がANAJAL両方も一日中ある。商業競争が大きれば大きいほどお客様が得をもらいできるようになる。

 

中国もそのような問題がある。中国の空港とアメリカの空港の間に直行便ごとに、法律に許される直行便は一つにすぎない。したがって、航空券の値段は上ける一方で、サービスも悪くなる。もし法律にもっと商業競争を要請されたら、中国とアメリカの常旅客が楽になるでしょう。

夏の読書ノート(一)

この夏休み、彼女が東京の理化学研修所に研究しているゆえに、函館に来た前二週間私は東京に過ごした。函館と東京を比較すると、東京のほうかまったく人口が多い都市なので、生活がもっと便利し、若者に対する魅力は明らかる。だが、東京という都市の形成は何百年前のことですが、東京の前身「江戸」は十八世紀もう世界に人口が一番多い都市になった。東京の魅力がみんなはっきり分かるけど、「江戸」という近世都市が若者に対する魅力は何と言うか?

 

江戸の衛生は、ロンドンやパリよりも確かに優れていたが、近世の日本の都市は火災に悩まされていた。近世の都市の中で、どちらもあまり理想的な住居ではなかったようで、どちらの人口も着実に増えていた。近世の都市はいわゆる「蟻地獄」という存在であった。出生率が低くて、伝染病や火災による死亡率が高かったので、都市の人口が増加するように人々は近世の都市に移住し続けなければならなかった。したがって、当時の人々にとって、都市のほうが優れた住所にとして存在していたと間違いないと思われる。近代都市がきっと楽園ではなかったにしても、近代の農村や奥地はもっと生存しにくい環境だったのだろう。ロンドンも江戸も、当時の人とって、「都市」という存在だった。彼らは、たいてい「都市の価値」によって惹き付けられ、「都市」へ移住した。

 

現代社会にとって、都市はエネルギーの利用で非常に効率的なコミュニティである。しかし、人々は大抵一戸建てに住んでいた近世で、そんな利点があまりなかった。でも、近代都市の魅力がそれに限りになかった。農耕のための土地が不足している場合、ほとんどの人は近くの都市へ仕事を探しに行った。死活的な問題に限りにはなく、他の理由で江戸に移った人々も多くいた。都市の文化に誘惑されて、自分の両親から逃げて、自力で男性の子供を産むことができなかった世帯主に収養されて、都市に住んでいた親戚や友人を訪れて、参勤交代で大名によって江戸に連れてきて、そういう風に江戸に移住してしまった人々もいた。驚くほど現代人を持って似た理由だった。