徒然なるままに

早さかな 不如帰なりけり わがのあけ

最後の出港

函館の猛暑日はふと終わった。火曜日のイカ踊りには、混んでいたからてっきり暑くなる恐れがあったのに、夜風が身にしみた。気がつかなかったって、雨もやっと来た。

 

土曜日から、前に一週間の晴れ日の代わりに、曇りと雨が繰り返していた。水曜日が新しい日曜日のヨットの出航講座をサインアープした時、函館まだ蒸し暑かくて、普段に気温が30度を上回って来た。この週末は逆に20度に足りなかった。そのヨットの活動をサボるかどうか、その活動に間に合うため6時半に過ぎ起きた私はそう考えた。最初のバスを乗って、朝市で朝ごはんを用意して、ギリギリ緑の島に間に合った。そこについた時、HIFの他の七八人もう待っていた。天気がもっと悪くなるかもしれないので、今日の出航が行うかどうか、誰でも知らなかった。

 

朝九時すぎ、声をかけて出航の決定を知らせた。そして、「さむらい」というヨットを乗って、初めて函館の海を抱きしめて行った。港から出た際は、身を切るような風がもっと強くなった。函館山の裏に航行する予定があったけど、風神のおかげがなかったって、諦めてしまった。2時間ぐらい航行したら緑の島に帰った。

 

風のせいだと思ったけど、風邪を引いてしまった。午後ずっと四時間で寝た。函館の海に負けた私、もっと強くなりたいなあ。

夏の花火

いよいよ八月がやって来た。日本についた六月一日からもう二ヶ月だったのに、函館の穏やかな生活にまだ慣れなかった。平日の通学路上でも、函館の住宅区という本通りから商業区までのバスあまり混んでいないで、ただ四五人のサラリーマンと六七人の高校生にすぎない。昔、函館ほど早く開港した町がなかったので、全東北と道内も函館ほど盛んでいた商業がなかった。私が函館を自分の夏プログラムとして選んだ理由はその歴史しかなかった。今年は百五十年前創立された棒二森屋の最終年間なので、毎日棒二森屋前のバス停で乗り換えたとき、函館の変遷に感動させられた。天気が寒なくでも暑なくでもとおり、穏やかな函館の生活は少しずつさえ進まなかった。ここにいる私も動き出せなかった。

 

でも、みなと祭りの花火は果たして違う物語だった。午後5時過ぎなかった、松風町からベイエリア経て元町公園まで、どんどん混んでいて来た。浴衣を着いて、笑顔をかけた方はみなと祭りのためきた観光客か、それとも普段ほとんど見られなかった地元の人か。花火のより、平時静かな函館がにぎわいのある祭りと際立った対照をなしてしまった。まるで別な町に立ち寄るようになった不思議感がいっぱいあった。俳句一首を吟ずた。

 

騒々し

あじさいとばら

打ち上げた

夏の音楽会

みんな函館市電を乗りながら「第28回遺愛定期演奏会」のポスターを見たことがあるはずだ、私はそう思った。その会場は自分のホストファミーリから歩いても20分ほど函館芸術ホールだったので、函館に滞在したもう7週間を経て、せめて一度だけ函館の高校生の姿を行ってみようか、私はそう考えた。実は、平日HIFに通学路上、函館工業高校と大妻高校と函館西高校を次第に経るわけで、その高校の学生一緒に通学のは日常茶飯事になった。残念ながら、バスでみんなは黙っていたら、一度さえお互いに話せなかった。じゃ、函館の高校生たちはどのような舞台で輝くかな、私はとても楽しみだった。

 

現場は盛んでいた。千席以上を超える函館芸術ホールが満席になったほど盛んでいた。招待券を持っていなかった私は、運がよかった故に、千円でA席のチッケトを買わせていただいた。演奏会は午後四時開かれた。私はただ一ヵ所の高校の遺愛吹奏部が127人の部員がいるのに驚かせた。その演奏会の前半は普段なクラッシックピーズを演じたけど、後半は全部部員たちが自力で創造したピーズと演出だった。アンコールもう3回目だった終わった。少子高齢化が一方で、函館の若者が元気な一面をみられてきたのはよかった。私にとって、いか踊りとともに、この演奏会は函館が最初に与えた「時代遅れ」という印象を変わってくれた。

 

遺愛定期演奏会は明日(日曜日)もう一回開催されるが、午後3時半から6時半までそうだ。もしみんな時間があれば、それは逃せならないチャンスとして、私はすすめる。

夏の函館山

丸山先生がおっしゃった通り、函館山の周りに歴史が集まっている。きょう、丸山先生がくださった「函館ピーズマープ」を拝見しており、東京からここに週末を過ごしている彼女と一緒に函館山の周りの史跡を訪れた。先日がさしぶりの快晴の夜に、函館山の登山バスで世の中に有名な函館山夜景を見に行った。たぶん金曜日の故に、おおかたの旅客が山頂に大勢に集まっていた。ロープウェイを乗るため、1時間ぐらい並んで待ってしまった。とても混んでいた中で、きれいな夜景を見えるようになって嬉しかった。

 

きょうも晴れだ。本日の朝10時、函館朝市に海鮮丼セットを食べたら、函館山の北側の外国人墓地に行った。外国人墓地に導く道の両側には、それぞれの花を咲いていた。夏はさすがあじさいが盛んでいる季節ね。いわゆる「外国人墓地」は、一つ大きい墓地ではなく、実は国ごとにまたは宗教ことに埋蔵された外国人の数個な独立した墓地の全体と呼ばれた名だった。つまり、中国人墓地、ロシアとキリスト教正教会、プロスタント教徒、徳川の役人、それぞれの外国人がこの函館山の側に埋蔵された。先日の山頂の混んでいた現象なの対して、ここはとても静かだった。ただ山と海と木と花が囲まれた墓地にすぎなかった。

 

午後、函館山の南側の立待岬に行った。そこに導く道の両側もそれぞれの墓地が並んでいたが、これは日本人の墓地だった。函館山もう外国を防ぐための要塞ではないが、外国と日本の境界がここにはっきり見えた。同じことがもう一つ気がついた。函館戦争によって、新政府軍の戦死者の墓地が函館山ロープウェイ駅の近くの護国神社に置かれているが、その同じ戦争に戦死した幕府軍の墓地は山の南側の碧血碑にある。函館山の周りに確かに自分が歴史を感じさせられた。そして、俳句一首を吟ずた。

 

歴史の波

山下の側

尋ねきた

 

(昨日書いたブログを投稿するのを忘れてしまった。。。)

夏の土偶

ホストファミリーと話題がだんだんとなくなってしまったという文句をHIFの学生の方から時々聞こえた。ありがたいことに毎晩の夕飯で私とホストファミリーが話題をあらたにできます。テレビでニューズを見ながらご飯を食べるのは話題を発見されたことにとって便利だった。最近、世界遺産の候補として選ばせたゆえに、北海道と北東北の縄文時代遺跡群は新聞記事とテレビニューズで活躍していた。東京国立博物館にも縄文時代に関する特別展を開催されていたので、縄文遺跡が全国の話題になったそうだった。

 

偶然なので、当時にHIFは大船縄文遺跡群を訪れる予定があった。土曜で全員と函館大学の学生と一緒に大船縄文遺跡群に向けて出発した。子供の時の私が大好きだったドラえもんの大長編の一篇は日本の誕生として背景にした。その物語で、日本の縄文時代土偶のび太ドラえもんの敵の部下だった。その戦いの結果として、中国大陸からの移民が日本に定住になった。いわゆる縄文時代の末と弥生時代の冒頭だった。俳句一首を吟ずた。

 

空旅

土偶に負けな

日の出の地

中休みの旅

ずっと期待していた中休みがやっと来た。函館に着いたもう五週間ぐらい、なかなかどこかに旅行したくなった。でも、函館にもまもなく真夏日になるそう七月中、関西に行く予定はいい決定かどうかわからなかった。

 

前学期の期末試験がおわったらすぐHIFから飛び出して、旅行の準備のため家に帰った。一年前の正月、私は京都、奈良、堺など関西の歴史名城を訪れた。残念ながら、時間の故にただ大阪を飛ばして、アメリカに帰った。こんどは正月ではなく、猛暑が続いた七月における関西の姿をみて見たいなあ。

 

次の日でJALを乗って大阪伊丹空港に行った。函館は25度にすぎなかったが、大阪はやはり36度を上回った。飛行機に降りの際は、その猛暑を確かに身で感じた。ホテルに到着したら、もう午後6時ので、すぐ外食に行った。土用の丑の日に近づいていたので、うなぎを食べたくなって、食べログで近くのうなぎ屋を見つけて行った。しかしながら、二三うなぎ屋をおとずれたら、全部きょうは完売になってしまったそうだ。手に負えなかった私が牛肉出汁を入れるラーメンを夕飯にして、早くホテルに帰った。やっと夜にも蒸し暑かった大阪の屋外から逃げ出した。

 

翌日、京懐石をいっぱいだったら、今度の旅の本番という比叡山を登りに行った。信長にやき焼き失われた延暦寺としての仏教名所だったが、現代の山頂がヨーロッパ風な庭を置かれている。晴れなら、そこで琵琶湖の全景をはっきり見える。感動させられた私、俳句一首を吟ずた。

 

初夏の庭

花隠れの葉

斜めせず

夏のノスタルジア

夏のノスタルジア

 

この週末、ホストフャミリーが私同住のマシュー君に麻婆豆腐を作ってくれた。お母さんが麻婆豆腐を自分の前に持ち置いたとき、懐かしさ一杯になった。私の出身は成都と申しますで、中国の四川省に置かれる。成都は麻婆豆腐、青椒肉丝、麻婆茄子、回鍋肉など日本で有名な中華料理の本場である。ホストフャミリーのお母さんが作った麻婆豆腐が確かに日本人の口に合わされた再創造にすぎなかったけれど、その懐かしい盛んで一碗の前の私はわっと泣き出した。

 

成都は函館と比べるとぜんぜん違う町だと言える。成都は豊かな成都平原の中央にあって、いろんな4000米以上の山に回されている。函館の様々な海鮮名物が成都の場合はぜんぜん見つけないものになる。夏には、三十度に上回る場合は成都が多くあるが、函館は暑い天気はただ二週間にすぎないようだ。成都の人口は千万以上に超えて、高齢化と少子化の故に、もう一方では函館の人口はだんだん減っている。それにしても、成都ものんびりした町として有名だ。平日でも公園や茶屋でマージョンを楽しんでいる市民がよく見える。料理に限られず、成都の名物もう一つのはパンダである。パンダを育てている基地のため成都に訪れた外国人が毎年大勢にいた。

 

成都の歴史に詳しい日本人も少なくないと言える。三國時代の「蜀」の首都として存在いたので、「三国志」に詳しい人は孔明ら偉い「蜀」の英雄が知っているはずだ。